世の中は複雑で理解し難いけど答えは割とシンプルだったりもするよね
マンガ家nikoのパートナー、ぴこつです。
ふと、
自分では理解できないこととか、理解できることの違いってなんなんだ?
って考えることがあります。
そういうの、ないですか?
ある「ことがら」に対して嫌悪感を抱いたり、「生理的に無理」みたいなことです。
なんで自分はこんなにも気分が悪いんだろう
と思うことがあるんですよね。
今回はそのナゾに付いて書いていきます。
一緒に考えてみてください。お願いします!
世の中はふくざつなことを受け入れる
『世界は多様性に満ちている』
なんて取って付けたようなむずかしい言葉をつかってみました。
多様性って、最近よく聞くでしょ?
言葉自体は確かに最近になってよく使われるようになりました。
だけど多様性ということ自体は今に始まったようなことではなく、何億年も(言い過ぎか?)前から当たり前のように存在しているんですよね。
- 年齢
- 性別
- 人種
- 性癖
今でこそ人間を区別するための言葉が存在するので、それによって人は色々と分けられてるんですね。
そういう概念がどこから生まれたのかはわからないけど、昔はみんなただの「人間」だった。
それがいつしか、さっきあげたように区分けされて、それぞれの特徴を定義づけられちゃった。
- 10代で仕事はしなくていい。勉強をしろ。
- 男性は男性らしく。女性は女性らしく。
- 日本人は勤勉でシャイな人種。
- 男性はみんな大きな胸の女性が好き。
みたいな感じで。
念のために言っておくと、これぼくの個人的な考えじゃないですからね。特に最後のとか、4番目のとか。
あくまで「一例」として、よく言われていた気がするというヤツです。
それが今はまた「多様性の時代」として、つまり固定概念をなくそうってことで、さっきの定義付けみたいのはもうやめようぜ。
という流れになっています。
それって、大昔のようにいろんな人がごちゃ混ぜになっていて、分類する必要がなくなったってことなのかも。
ぼくもよく知らないけど、きっと大々々々々むかしの地球は全部の大陸がつながっていたりして、人種とかそんなものも存在していなかった・・・のかもしれない。
そんな時代と同じ状況になりつつあるってことなんじゃないでしょうか。
なぜそんなことが起きているのかというと、まぁもうここ20〜30年くらいの間に広がったインターネットの存在ですよね。
全ての情報がこのインターネットっていうネット(網)に乗っかって、ぜーんぶつながっちゃった。
そして、SNS。
これまたインターネットの情報の一部として世界中の人がみんなの情報も知ることができる。
「世界にはいろんな人がいるんだなー」
って事を理解するようになったんだと思います。
個人差はどこにでも存在する
人間を分類するのもそうだけれど、だけど例えば同じ男性であっても大柄な人もいれば小柄な人もいる。
見た目が同じような人。例えば双子であっても、スポーツ好きな兄と勉強好きな弟・・・みたいな兄弟もきっといますよね。
そんな、たとえ分類したとしてもその中にもさらに個人個人の趣味とか、考え方とかも全部違う。
なので、「同じ◯◯なのに」みたいな批判とかもやっぱりおかしいんじゃないかと思えてきます。
典型なのが学校で、常日頃から「みんなと同じようにやりましょう」みたいな雰囲気ってまだまだあると思うんです。
ぼくたちが子供の頃に比べたら格段に減りましたけどね。
でも、ぼくが娘から学校の話を聞いていると、
「給食の時間は15分」
とか、
「カバンの中には大量の教科書が入っている」
とか、
「全教科が偏差値で見られて低い物をあげようとする」
とか。
給食の時間が15分は明らかに短いとは思うんですが、特に食べるスピードが遅い子だっているわけですよ。
(ていうか食事はゆっくり時間をかけて噛むことが大事でしょ?)
そんな短時間でみんなと共通化されていることもすでに無理があるし、
大量の教科書入りのカバンは体が成長中の子供にとっては小柄な子だけが損をする。
(ていうかそもそもそんな大量の教科書を持ち歩くの何十年やらせてるの?)
偏差値を見てしかもその偏差値すら平均して「これ低いから頑張ろう」って、その教科が苦手だから低いんだって。むしろ高いのを褒めて欲しいですよね。
(ていうかみんな万能型なわけないじゃん?)
書いていて、
そういう個人差を受け入れるっていうのは学校教育によってつぶされちゃってる気がしてきました。
「協調性を持つ」ということは必要なことなのかもしれない(ぼくはまるっきりない人間)。
でも、さっき上げたような協調性はあまりにも理不尽だと思うんですが、みなさんはどうですか?
他人はどこまで行っても他人
親子、兄弟・姉妹、親友。
みんな関係性の深い人間同士ですよね。
だけど、親子であっても兄弟・姉妹であっても、友達同士であっても、やっぱり自分とは違う人間です。
言葉にすると「他人」ですよね。
「似ている」ということはたくさんあると思います。
それが遺伝なのか、血液型なのか、星座なのか、干支なのか、オーラなのかよくわかりませんが。
でもそれでもやっぱり他人同士。
似ているからといって、すべてが同じなわけがないっていうことはお互いが理解していないといけないですよね。
そうでないと「なんで自分はやってるのにあなたはできていないんだ」ってことで相手が理解できなくなってしまう。
そんなこと当たり前なのに、です。
自分が信じるものも信じないものもオフホワイト
自分が信じているものを色に表すとすると、白。
だけど「真っ白」じゃない。
自分が信じていることは絶対に正しいとは限らない。
そりゃそうですよね、真実とかっていうものは突如としてクルッとひっくり返ったりします。
- 歴史上の人物はほぼ全部が誰かの想像の話
- 科学や医学でさえも研究によって結果が覆る
- 技術の進歩によって不可能だったことが可能になる
みたいなことって、いくらでもあるでしょ?
だから、自分が100%信じていた内容も、突然裏切ったりするんですよね。
何が言いたいかというと、自分が信じているものを他人に押し付けたって、それが間違っている可能性はあるよっていうこと。
逆に、自分が信じていなかったことだって、いつの日か急に受け入れなくちゃならなくなることも出てくるかもしれない。
何が言いたいかというと、自分が信じてないものを全面的に否定すると、それが将来の自分の首を締めるかもよっていうこと。
好きは100%正しい
真実とか、誰かの特性とか。
すべて一言で表したり、「こういうことだ」って言い切ることって本来は難しいんです。
だって何が真実かなんて誰にもわからないんだし。
一つだけ、絶対的なものがあります。
自分が「好きだ」と思ったものです。
少なくともその時は。
好きだと思ったその瞬間の気持ちは真実です。本物です。
それは受け入れなきゃいけない。
将来的に好きでなくなることはあるかもしれない。
だけど、「好きだ」と思った気持ちに対してはウソはないです。
ウソだと思うなら、その気持ちがウソですね。
そこはフタをする必要なんてないと思います。
好きなものは好きと認めて、それに従った行動をとればいい。
むしろその好きから逃げることの方が、ずっと自分を攻めてしまう要因になりますよ。
人って、何かが好きだから、それを守ろうと必死になる。
それ自体は何も悪いことじゃない。
他人が守っている「好き」は、自分に置き換えたら他の何かの「好き」なんですよね、きっと。
そう思ったら、自分が理解できない相手も、なんとなく受け入れることもできるんじゃないかな?
きっと、みんな何かが好きなんですよ。
その好きの対象が、みんな違うというだけで。
多様性の時代
ですもんね。
まとめ
と、いうことで『世の中は複雑で理解し難いけど答えは割とシンプルだったりもするよね』というお話でした。
ざっと書いたのでおさらい。
- ふくざつとは多様性のこと
- 多様性は太古の昔にあった
- 個人差を理解してあげる
- 血のつながりも他人は他人
- 自分の信じるor信じないを受け入れる
- 「好き」は絶対的な存在
みなさんも何かを誰かを、理解できないなーと思った時、ふとこんな感じのことを思い出してみてください。
ではまた!