明日、死ぬ。
ぴこつです。
突然ですがぼくは
妻は・・・
マンガを死ぬほど描けば稼げるので大丈夫。
先に断っておくと、ぼくに自殺願望はまったくありません。笑
というお話。ごめんなさい。
でもドッキリの類ではありませんのでもうちょっとお付き合いください。
だから、まずはその家族のためにぼくが死んでも大丈夫な状況かを真剣に考えました。
でも、できることなら明日ぼくが死んで・・・
職場の人に少しでも「こいつ頑張ってたんだな」と思われたらいいな。
「期待してるよ」
とか
「ちゃんとやっておいてね」
とか言われると、とたんに必要以上にプレッシャーを感じて焦ってしまうヘタレです。
という不安ばかりが頭に浮かんで手が止まってしまう。
最後の最後にやるしかない状況に追い詰められてなんとかようやく死ぬ気で帳尻を合わせる…
そんなままでぼくが明日死んだら、後任になる人はきっと「こいつ今まで何やってたんだ」となるでしょう。
恐らく客先にもごめんなさいをすることになる。
それが生きた証として残るのはちょっと不本意です。
それよりも考えるのは、明日自分が死んだ時に「自分の人生がそこで終わって自分は“精一杯生きた”と思えるのか」ということです。
今までのぼくなら、明日突然死ぬことになったら
「まだやりたいことがたくさんあった」
とか
「こんな人生のはずじゃなかった」
などと後悔や未練を残して死んでいくんでしょう。
ぼくはもともといわゆる意識高い人ではありません。
なので今まで
「しのごの言わずにとにかく一日、精一杯やりきる」
というような目標を立てても、30分も立てば「めんどくせぇ」と投げ出してしまっていました。
一度や二度じゃありません。何度も心を入れ替えようとしました。
でもその度にフラフラしている自分を振り返って見ると将来の不安だったり、お金の不安だったりで悲観ばかりしてしまう。
だから決めました。
明日、死ぬ。
と。
これ、実際に口に出して見ると、結構怖いんですよ。意外とドキッとします。
こんなこと言って、本当に死んだら嫌だな・・・とか。
でもこれはある意味で本当の話。
今日のぼくは、明日にはもういない。
昨日のぼくも、当然今日はいない。
そう、”死んだ”のです。
さて、そんな思想から生まれた自分の意識はどんなものか。
どうせ明日死ぬんだから今日だけがんばろう
この先どうなるかなんて、いや、明日の心配なんてしなくていいんです。どうせ死んじゃうんだから。だったら今日だけ自分なりにがんばってみて、その結果どうなろうと知ったこっちゃない。
明日死んで、自分に残るのは「がんばった」という事実だけ。それは言い換えれば精一杯生きたということです。
だから「明日はコレがある」「一週間後にコレがある」「将来大変そうだ」「この先不安だ」などとムダなことを考えなくてよくなりました。
もし、もしもですよ。(しつこい)
仮に明日、ふつうに目が覚めてしまったとします。
でもそれはもう自分ではありません。
その日起きた自分は昨日の自分ではなく昨日の自分の生まれ変わりです。
なので、明日のことは明日の自分に託せばいいだけ。他人に丸投げする感覚です。そう思えば、自分が今やってることが後にどうなるかとか考えなくていいでしょ?
明日死ぬのは幸せを感じている時も同じ
明日死ぬのは、なにも悩んでいる時だけ・・・とは限りません。幸せな今日も、明日死んだらもうおしまい。だったら、とことん今日だけ楽しめばいい。
「明日からまた仕事かぁ」とか「明日の打ち合わせ嫌だなぁ」とかも一切考える必要がない。
今日を精一杯楽しむこと。これにつきます。未練なく死んでいく為に。
“死してなお”を残す
明日死んだとしても、自分が生きていたことだけは残したい。ふとそんなことを思いました。
今日が終わった時、なにも成し遂げる事は出来ていないかもしれない。それでも自分が生きていたという何らかの証を残す事はできる。たとえわずかでも何かを残して死のうと思えば、今やっていることを今日が終わるまではやりきることができる。
がんばってやりきったとしても、思うところまでやりきれなかったとしても、やっぱり明日には死んでしまいます。
だからやっている間はこんなことを考えています。
「明日生まれるぼく、がんばれよ。できるだけの事はしておくから。」
今日だけで最大限にできるように徹底的に手を抜く
「明日死ぬ」とは言っても、もう生きている時間は限られています。だから、その生きている今日という時間をいかに充実させるか。
ムダなことをしている時間はありません。
自分でやらなくていいことはやりません。他人に任せられることは任せて、自分にできることだけに集中する。
あるいは、自分より得意な他人がやったほうが効率のいいことを他人に任せる。
それからもう一つ大切なこと。
今日の自分がやらなくていいことはやらない
これが重要です。明日以降にやればいいと思われることは残されただれか、もしくは明日生まれるかもしれない自分に任せればいいんです。だけどそこに一つ付け加えるなら、「やるという事実」だけはなんらかの形で残しておくことです。ちょっとしたメモでもいい。「これやってないよ」とか「これ明日やる」とか。
それによって残されただれかはなにが残っているのかに困らなくてすみます。ちょっとした遺言ですね。
昨日までの自分を振り返らない
今日の自分が明日の自分のことを考えないのと同じように、昨日の自分のことも考える必要はありません。
なぜなら「昨日の自分」も「今日の自分」ではないから。たとえ昨日の自分が大したことができていなかったとしても、「サボってやがったな(笑)」でおしまい。
「死んじゃったんだからしょうがない、自分がなんとかしてやるよ」と思えばいい。
安心してください。
遠い過去にやり残してきた事や“黒歴史”も、今日の自分には関係ないんです。笑
誕生日を特別な日にしない
言うなれば、毎日が誕生日です。
記録上の誕生日などは、一年の内のただの1日であることに変わりありません。昔は都合のいいように誕生日を書き換えていたもと聞きます。それくらいなので、今日の自分にとって誕生日には意味はでしょう。
朝、目が覚めたら。
その自分が生まれて死ぬ一日を、精一杯生きるだけ。めでたいとかではないんです。
どうでしたか?
ぼくが「明日死ぬ」と決めてから、生きるのがすごく楽になりました。
妻がよく言う「人生、生きるか死ぬかの二択」にも近い気がしてきました。
ただ何度も言うように僕は死にたいわけではありません。むしろ、生きたいです。もっと生きて、最愛の妻や娘と人生を楽しみたい。だからこそ、いつ死ぬかは誰にもわからないことを自分に宣言して、今日1日に全力を注ぐ生き方をするようになりました。
とはいえ、ここまで死ぬとは言ってもやっぱり死にたいとか思っちゃう時もあるでしょう。そんな自分に言い聞かせているルールは、
「死にたい」「死にたくない」にかかわらず、問答無用で明日死ぬ。
そして今日の終わり、ベッドで目をつむる自分にかける言葉はこれです。
今日のぼく、お疲れ様でした。安らかにお眠りください。